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「俺はきっとあんたの全てを奪うよ」 まず何なんだと思った。 そいつがおかしいのはいつものことで、気に止めないのもいつものことだった。 しかしいつも遠くを見ているその目が、久しぶりに自分を見ていることに気付いて 思わず机を拭く手を止めてしまった。 機械的な作業が止まったのを視界の端で捕らえたのか、一呼吸置かれる。 窓にさす光が柔らかに彼を包んでいた。日常の裏側のように幻想的だった。 「だから、一個だけしっかり持っておいてね。大事に、大事に」 そう吐き出すようにゆっくりと言ってから窓に再度もたれる。 あたしは何も言えなかった。沈黙をごまかすように、思い出したように机を拭く。 彼は手元を埋めるように、投げ出されていた広告に手を伸ばした。 きっとまたあの紙飛行機だ。よく飛ぶと自慢していた、でも折り方は簡単な。 必死に折り方の手順を思い出している自分が居た。とにかく何か考えていたかった。 言葉の意味を考えたくなかった。考えても完璧に理解できないのが怖かった。 「あんたはきれいなんだ」 きれいだ、もう一度独り言のように呟く。 笑ってしまえばいい。流してしまえばいい。でもできない。 「俺は、あんただけは信じていたいんだよ」 ―だからその一個を失くしたらだめだよ。 穏やかな声のくせに切羽詰っているような喋り方をする。 言葉が意味を超えて心に浸透しようとする。危険な兆候だ。 息をするのが少しばかり苦しくなった。窓は開けてあるというのに。 花瓶を持ち上げてその下を拭くのも、やり飽きた苦し紛れだ。 花はいけていない、寂しい水色の陶器でできた花瓶。 手触りがやけに不安定で、壊れる予測しかできないようなそれ。 「あんたの名前がつくもの全部が欲しい」 何故だか泣きそうになった。 息も、瞬きも、速度が落ちて何も考えられなくなる。 僅かにまだあった脳の余裕が感情の無い揺らぎで一杯になる。 口を開くそいつも、先ほどより暗くなった外を見ながら、泣きそうな顔をしていた。 同じ気持ちを持て余している、そう思った。 きっと分かち合えないけれど。 「あんたの、好きなものも嫌いなものも悲しいことも苦しいことも嬉しいことも」 固まる空間に紙飛行機が飛ぶ。 壁に当たってそれはすぐに落ちる。 空気はひたすら圧迫される。潰れそうだ。 「良いところも悪いところも優しいところも残酷なところも切ないところも虚しいところも、」 もう動いているのは彼の息遣いとあたしの心臓だけだった。 意識も、そいつの言葉に捕らわれる。奪われる。 「俺は、どうしようもないんだ」 わかったよ、痛いほどに。わかってるよ。 「だから、だからさ、」 空気が揺れてあたしは知る。 意識のなか、理性と本能が冷たく混じるのがわかる。 捕らわれているのだ、最初から、捕らわれていたのだ。 自分が戻ってくる。やっと動くことが許される。 当然だ。あたしの半分以上はもう彼の世界に取り込まれているのだから。 立ち上がる自分をぼんやりと認識していた。窓辺の彼が透明な目であたしを見た。 震えていた。どちらのものかはわからないけれど、心臓が嫌というほど収縮している。 その腕に触れた。触れるというより融けるという方が正しい。 空みたいだ。夕方の吸い込まれるビビッドみたいだ。 そして抱きしめた。腕の中が少し震えた。 だめだよ、と搾りきった残りみたいな声がした。 大丈夫だよ、と何の慰めにもならない言葉を吐いて猫毛の黒髪に口づけた。 「なあ、俺はあんたのことが、好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで 「うん」 全部うばってやるよ そうしたらあたしたちは一つになれるだろうか。 ← |